霊山神社は、明治42年9月15日に「石動神社」、「十二神社」、「諏訪神社」、「白山神社」を合社して建てられました。
平成25年9月1日から「氏子だより」を年3回発行し、祭礼の状況や集落の歴史などを氏子の皆さんにお知らせしています。
発行は、大字両善寺の区長が責任者となり、大字の神社委員と有志2名によるボランティアの編集委員で発行しています。
■■■■■■ 右欄の目次
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1.今の両善寺の風景
2.神社あれこれ
① 設立
② 薬師堂
③ 祭礼
④ 主祭神
⑤ 山の神
⑥ 大山祇命
3.周辺の伝説・言い伝え
① 女房石
② カッパの傷薬
③ ナスビ地蔵
④ 石造宝篋印塔
⑤ 西野谷の「春駒」歌詞
4.リンク
① 大毛無山登山情報
https://peraichi.com/landing_pages/view/oogenasi1431/
「山の神」が祀られている「大毛無山」の
情報です。
<7月15日>
大字役員より、「アカギの神」参道の草刈りなど清掃していただきました。
<8月7日>
老人会「大毛無クラブ」の皆さんから境内の清掃奉仕をしていただきました。ありがとうございました。
<4月21日>春季祭礼を行いました。
今年は杉の落葉が多くて9時からの「宮刈り」は大変でした。
10時30分から「祭禮」。今回は、権禰宜さんと娘さんがおいでになり、氏子の話題をさらっておりました。
MIDジャパン様、ロッテアライリゾート様もお臨席いただき、「直会」はお昼過ぎまで続きました。
① 女房石
( ロッテアライリゾートの山麓第一リフトを下りた
左手付近の林の中に東屋があります )
今からずっと昔、この道が京都へ続く重要な街道の一つだったころ、ここを通りかかった夫婦の旅人がありました。沼(野尻湖)から関山権現に参拝し、矢代川の急流を越えて、大毛無山麓のこの地まで来たのでした。
女房は身重の体で、二人は夫の用事に合わせて京の都まで旅をしている途中でした。ところがこの辺りに差し掛かったとき、急に女房の体の具合が悪くなってしまいました。幸いこのあたりには多くの寺院や僧房があり、そのうちの一つにお世話になって回復を待つことにしました。
何日か養生をしてみましたが、女房の具合はなかなか良くなってきません。しかし、夫のほうはどうしても約束の日までに京の都へ行かなければならない用事があったので、やむなく女房をこの地に残して出発しなければならなくなってしまいました。
女房は、「どうぞあなた一人で京の都へ行ってください。私の体もあなたが戻る頃には良くなっているでしょう。ここのお寺にお世話になりながら、あなたの行かれる京の方角にあるお山(大毛無山)を毎日拝んでご無事を祈っております。」と言いました。夫はしかたなく後ろ髪を引かれながらも一人で京の都へ旅立って行きました。
しかし、身重の女房の病気は日ごとに悪くなり、ついに看病の甲斐なくこの地で亡くなってしまいました。
それからしばらくして、山仕事に出かけた百姓が今まで見たことが無かった石が在るのに気がつきました。その石の形が子供を抱いた女房がお山の方角を見ているように見えたので、誰とはなく亡くなった女房が、生まれてくるはずだった子供を抱きながら、京の都へ行った夫の無事を祈る姿で石になったのだろうと噂をするようになりました。
ようやく京の都での用事を終えて夫が帰ってきたのは、女房が亡くなり石になってしまってから間もない頃でした。今の西長森神社あたりまで来た夫は、そこで人々の噂話を耳にしてしまいました。女房が死んで石になってしまったことを知った夫は、あまりの驚きと悲しみのためにその場で急死してしまい、石になってしまいました。
その後、雨の降りそうな夜にこのあたりを通りかかる人があると、男の旅人から、「隣村の霊山寺に居る女房に会いに行きたいが、歩けなくなったので背負っていって欲しい。」と頼まれることがありました。「いいでね、さあ、ぶっつあってくんない。(背負われなさい。)」としゃがんで背負おうとすると、とても重くて背負うことができません。ハッと我に返って振り返ると、なんと神社の石を背負おうとしていたと言う事が何回もあったという話です。
今でも夫の石は会いたい女房石のほうを向いていて、女房の石は子供を抱いて京の都の方角にあるお山(大毛無山)を見守っているように見えると言われています。
( 下の写真が 女房石です。)
② カッパの傷薬
( 両善寺の北隣に川をはさんで三ツ俣集落が
あります。「矢代豆腐」のお店の南隣のお宅
が傷薬を作っていました。カッパ淵はさらに
100mほど南にあります。 )
昔々 のお話です。三ツ俣の「カッパ淵」にとてもいたずらなカッパがいました。
畑のキュウリを盗んで食べたり、お地蔵様のお供え物を食べてしまったり、三ツ俣の人たちはみんな困っていました。中でも一番困るのが馬のシンノコを抜いてしまうことでした。
お百姓さんたちは田圃を耕したり、荷物を運んだりするのに、みんな馬を使っていました。つらい仕事が終わると、疲れた馬を川へ連れて行って、暑くなっている馬の体を冷やしたり、汚れた体を洗ってあげたりしました。カッパは、馬が川に入っているときに、馬のシンノコを抜いてしまうという大変な悪さをしました。シンノコを抜かれてしまった馬は、しばらくはフニャフニャになって全然力が出なくなってしまいます。馬の力が出ないと、田圃を耕したり、荷物を運んだり出来なくなってしまうので、お百姓さんたちは本当に困っていました。
(シンノコを抜くって、お尻の穴から血を吸うこと。)
あんまりカッパのいたずらがひどいので、三ツ俣の「四郎ざ」というお百姓が、「よし、おれがカッパを懲らしめてやる」と言って、ある日、カッパ淵に馬を洗いに連れていきました。「四郎ざ」の背中には草を刈る鎌が隠してあります。カッパ淵に馬を入れると、案の定、いたずらカッパが、そ~っと様子をうかがっているのがわかりました。「四郎ざ」は、しらんぷりをして、わざとよそを向いていました。すると、カッパは「ようし、今だ、 馬のシンノコを抜いてやろう。」と馬の後ろへ近づいて来ました。」そして、馬のお尻に近づいてシンノコを抜こうとしたその時、「こらっ、いたずらガッパめ、こうしてくれる!」と、「四郎ざ」は鎌で切り付けました。「ギャッ」という悲鳴とともに、馬のお尻に伸ばしたカッパの腕がスパッと切り落とされ、カッパは水の中へ逃げて行きました。「四郎ざ」は、「いたずらガッパめ、これに懲りてもういたずらをするんじゃないぞ!」と言って、切り落としたカッパの腕を拾って、家に持って帰りました。
それから2~3日たった、ある雨の降る夜のこと、「四郎ざ」の家の戸を トントン、トントン
とたたく者がありました。「四郎ざ」が、「だれだ~、こんな夜中に~」と言いながら、玄関の戸を開けてみると。そこには、片腕のない、あの「いたずらカッパ」が立っていました。カッパは、「もう決して悪いことはしませんので、どうぞ私の腕を返してください。」と言いました。「四郎ざ」はびっくりしましたが、本当は、正直者で心の優しい人だったので、「もう悪さをしないと約束すれば、腕は返してやる。これからは、悪さをしないと約束するか?」といいました。カッパは、「約束します。もう決して悪さはしません。」と答えました。「四郎ざ」は、「それなら返してやるが、返したこの腕はどうするんだ?」とカッパに尋ねました。するとカッパが、「7日の間なら元どおりにくっつく傷薬があるので、それで腕をくっつけるんです。」と答えました。「四郎ざ」は「そんなにいい傷薬があるんなら、作り方を教えてくれないか? 怪我をして困っているお百姓がたくさんいるんだ。」と頼んでみました。カッパは、しばらく考えていましたが「わかりました、特別にお教えしましょう」と、傷薬の作り方を教え、切り落とされた片腕を持って喜んで帰っていきました。それからは、カッパのいたずらはすっかり無くなり、「四郎ざ」は、教えてもらった傷薬を作って、「とても良く効くカッパの傷薬」として、けがをしたお百姓さんたちに大変喜ばれたそうです。
☆ このお話の子孫の方は、今も三ツ俣に住んでいます。薬を作る道具や薬を包む紙などがまだありますし、最近まで「カッパの傷薬」のうわさを聞いて尋ねてくる人がいたそうです。
(カッパ淵)
③ な す び 地 蔵
( 昔は、三ツ俣集落にお堂がありました。
現在は、新井地区白山町に「地蔵院」
があって、そこに安置されています。 )
昔々、今から千年以上も昔の話、弘法大師様が全国を旅して仏様の教えを広めていらっしゃいました。
三ツ俣にもおいでになり、松の木の枝に掛け軸をかけて布教をされました。そのころの三ツ俣は大変にぎわっていて、弘法大師はこの地にしばらくとどまって布教活動をされていましたが、いよいよこの地を去るとき、一体の石のお地蔵様を刻んで建てて行かれました。
時は過ぎて、場所は江戸、ジンジンと蝉の鳴く暑い夏の昼下がり、街中なかの川では、大勢の子供たちが泳いだり、橋から飛び込んだり、たらいの船に乗ったりして遊んでいました。するとその中の一人がどうしたわけか川の真ん中で溺れてしまいました。
「早く竹竿をもってこい!」「縄は無いか!」皆が大騒ぎをしていたとき、ちょうどそこを通りかかったお坊様がおりました。この様子を見たお坊様は懐から大きな「なすび」を取り出すと、「ほら!これにつかまりなされ」と言って、溺れている子供へ投げてあげました。溺れるものはワラをもつかむで、溺れていた子供がこのナスにつかまると不思議と体が浮き上がり岸までたどり着いて、やっと助かることができました。
この子供はたまたま近くの大店の子供でしたので、しつけが行き届いていてお坊さまにきちんとお礼をいうことができました。「ありがとうございました。おかげさまで助かりました。是非あなた様のお名前をお教えください。お礼に伺いたいと思います。」すると、お坊様は「わしは越後の地蔵という者じゃ。」とだけ言って、すたすたとその場を立ち去ってしまいました。
子供が家に帰ってこの話を致しますと、父親が「そりゃあおまえ、このお店の大事な跡取りの命の恩人ではないか、是非にもお礼をしなければいけない。」ということになりまして、その息子と父親は越後へ向かってお礼の旅に出たのでした。
信州を過ぎ、信濃の渡しを越えて西野谷からちょうど三ツ俣あたりに来たとき、「あっ、あのお坊様だ!」と息子が指を指しました。親子が走りよってみると、なんとそれは道端にある弘法大師が刻んだお地蔵様でした。
「お地蔵様のおかげで息子が助かりました、大変ありがとうございました」と、親子はお礼を言うことができたのですが、よくよくこのお地蔵様を見てみると、雨風を凌しのぐ屋根もなく、雑草が生え、落ち葉が積もって見る影もない状態でした。
これを見た父親は「これは、おかわいそうだ。是非とも立派なお堂を建てて差し上げなければ。」と、庄屋さんにお願いして、集落を見下ろす場所に土地を求め、立派なお堂を建てて供養したということです。・・・
さて、それからまたずいぶんと時は流れ、ついには、そのお堂も人々に忘れられてボロボロに荒れ果ててしまいました。しかし、そうなってからしばらくすると、高田のあるお坊様の夢の中に、このお地蔵様が現れ、「お堂が壊れて困っている」と告げました。そこで、そのお坊様は荒れ果てた三ツ俣のお堂から、荒井の白山町へお地蔵様を移してご本尊として大切にお守りしたそうです。これが、今の地蔵院の始まりだそうです。
(三ツ俣のお堂の敷地を分けてあげたのは、妙高市の朝日町にあった田中旅館のご先祖との事です。)
このお地蔵様は霊験あらたかで、後に再び地蔵院住職の夢枕に立ち、「志村の一ノ口の大きな欅の根元に仲間の地蔵たちが埋まっているので、掘り出してほしい。」と告げて、お堂に祀らせたり、さらにその後、またまた住職の夢枕に立ち、「お堂の中に仲の良くない地蔵がいるので、外にほうり出してほしい。」と告げたという言い伝えまで残っています。
一ノ口のお地蔵様が、お堂の中だけでなく外にもいらっしゃるのは、そういう理由なんだそうです。
(私の子供のころは、大木の切り株の上にまだお堂があって、子供たちの格好の遊び場になっていましましたし、夜になると切り株が光るという噂が立ったことがありました。)
( さらに、五日市集落には、このお地蔵様にまつわるこんな言い伝えもあります。 )
昔々、五日市村に働き者の若い夫婦のお百姓がいました。秋になって田圃が黄金色に染まり、みんなが稲刈りで大忙しでしたが、この夫婦には生まれたばかりの子供がいて、子守で仕事がはかどらずに大変こまっていました。
そんな時、何処からか、見たことがない女の子が毎日のように現れて子守をしてくれました。「どこの子だろうね。」と夫婦は首をかしげましたが、この女の子のおかげで仕事がはかどり大変助かりました。稲を刈るのが終わる「刈り上げ」の日、夫婦は、「これはお土産だよ」と言って、ボタモチを重箱に入れて持たせてあげました。
それから数日がたって、夫婦は、「稲刈りもようやく一段落したが、あの女の子のおかげで大変助かった。ぜひ親にもお礼がしたいが、どこの子だろう。」と、帰っていく女の子の後をつけて調べてみることにしました。すると女の子は、矢代川を渡り、しばらく歩いて、白山町の地蔵院の境内に入っていきました。さらに地蔵院の本堂に正面から入っていったので、「おかしなことがあるものだ」と思いながらも続いて入って行くと、女の子の姿はなくなり、お地蔵様のお壇の前に先日持たせた「刈り上げのボタモチ」が供えてありました。それで、夫婦はあの女の子がお地蔵様の化身だったと知ったのでした。
④ 石造宝篋印塔
( ロッテアライリゾートの P4駐車場の
北北西隅にあり、県道から参道を50m
ほど南に入った場所です.)
神社から南へ1kmほど行った県道の傍にあります。だいぶ欠けてきていますが隅飾突起の形などから鎌倉時代のものと言われています。
この宝篋印塔について地元に伝わる言い伝えがあります。
「訂正越後頚城郡誌稿」には、里の古老に伝えて曰く、この墳墓は曽我祐成の妾、虎御前の墳墓なりという。・・・(続く) とあります。
あの有名な曽我兄弟富士の仇討の兄祐成のお妾さんだということです。
上越地方には虎御前の墓と伝わる場所が3か所ありますが、虎御前は17歳で妾となり、19歳で祐成と死別した後に善光寺へ曽我兄弟の供養を行っています。その後、63年の生涯を閉じた場所は岡山県とも、平塚市とも言われています。
この宝篋印塔について、20年ほど前にスキー場開発に関係して、占い師に見てもらったところ、多くの武将も埋葬されているとのことでした。真偽はともかく、昔から矢代川の急流を越す重要な交通路がここを通っていたことは確かです。
(宝篋印塔)
⑤ 西野谷の「春駒」歌詞
★かつては両善寺でも行われていました。
西野谷芸能保存会
春 駒
序 春の初めに春駒なんぞ
夢に見てさえ 良いとは申す
まわしてうつすは 十二の駒よ
< ソラヤレ ソラヤレ >
一、 月もよし日もよし 児蚕もよろし
児蚕に取りては 美濃の国や
美濃の国や 尾張の国や
< 以下ははやし>
二、 桑名郡の 小野山越で
とめたる種や さても良い種や
豊原種や 茨城種や
三、 種つき申せば越前種や
三所の種を よいせに集め
かいめの女郎衆に お渡し申す
四、 かいめの女郎衆は ほめ喜んで
浅間竹や 厚綿なんぞ
手でさえきりりと したため申す
五、 したため申せば 暖め申す
右の小脇に 三日三夜
左の小脇に 三日三夜
六、 両方合わせて 六日六夜
三日に水しき 四日によどむ
五日にぱらりと 出でてさえ給え
七、 さらばこの椎を 掃くべき羽は
空や珍鳥の 宙たつ鳥の
八つの風切り 手に持ちすえて
八、 一羽掃けば 千椎や蚕
二羽掃けば 万椎や蚕
三羽、四羽で 皆掃き寄せる
九、 さらばこの蚕に 何がな食はしよ
宿の小娘に 小足駄を履かせ
綾の前掛け 錦のたすき
十、 さらし手拭い 肩に一寸かけて
之より南に 小山がご座る
小山の周囲は 皆桑畑
十一、 おのえの方へと さえたる枝を
芯葉とらえて さらりとこえて
手で押しもんでは あの蚕にぱらり
十二、 あの蚕にぱらりや この蚕にぱらり
戸板にぱらりや 板谷にぱらり
ちらりぱらりと 皆まき散らす
十三、 さらばこの蚕の 桑召す音は
物によくよく たとえて見れば
昔源氏の 馬屋に似たり
十四、 名馬の駒にと まき上げさせて
朝日に向かいて うしぞよくと
夕日に向かいて うらぞよくと
十五、 合いの休みに くらかけ休み
ふんだんこらえて たなごに昇る
たなごに登りて 作りし繭は
十六、 天の川原の 瀬に積む石と
重さも似たり 堅さも似たり
美濃の国では 棉むき上手
十七、 尾張の国は 糸取り上手
上手と上手を 寄り集めては
九尺二間の 糸部屋建てて
十八、 十六わくにと そろりと移す
綿繭千石、 糸繭千石
種繭共に 三千石よ
十九、 残りの繭をば 皆織りました
一枚織りては お伊勢が明神
大神宮様へと おすみにあげる
二十、 二枚織りては 熊野の三社
権現様へと おすみにあげる
三枚織りては 所の鎮守
二十一、 お産土様えと おすみにあげる
さらばこの絹 皆織りました
残りの絹おば つづらに詰めて
二十二、 馬でやろうか 車でやろか
馬に付けても 七十五だん
車に積んでも えんやらやっと
二十三、 京へやろうか 大坂やろか
京や大坂 皆商人衆
さらばこの金 皆手に入れて
二十四、 かいめの長者よ 名乗られました
鶴は千年 亀万年
はい
はい どう
どう はい
どうどう
上手で長いはまだ良いけれど
下手で長いは御座のさわり
先ずはここらでおとどめ申す
< ソラヤレ ソラヤレ >
<演者>
うた、三味線、太鼓、ささら(婿さん)、こまふり(嫁さん)、おどり(姑・お婆さん)